昭和10年頃の竹原屋本店(右端の眼鏡を掛けた男性が矢口貞三郎)
以下の記録は、故・矢口貞三郎と現社長:矢口友通、専務:矢口和子の話のほか、戦後日本の歴史をもとに構成しています。
明治、大正、昭和初期
有限会社矢口硝子店の初代経営者・矢口貞三郎は、10才から山形市内の工務店である竹原屋本店で就業し、ガラス加工技術を習得しました。
10才というとまだ小学校4年生です。現代では信じられませんが、明治から大正時代、昭和初期の時代までの時代は子供でも丁稚奉公に上がることはよくあることでした。
成長するにつれて専門の技術を身につけた貞三郎は、竹原屋本店の意向で東京に上京する機会を得ました。そして、当時としては画期的だった窓ガラスのパテ付け、ステンドグラス、ボカシ山水ガラスなどの技術を身につけました。
その後、独立し、昭和十二年に山形県山形市緑町に矢口硝子店を設立しました。
現在では重要文化財の文翔館として親しまれている旧・県庁には時計代があります。その時計代の丸いガラスを最初に取り付けたのが貞三郎でした。
第二次世界大戦と赤紙
貞三郎がガラス店を営み始めてしばらくすると、大日本帝国は真珠湾攻撃を契機に大東亜戦争を開始しました。
既にこの時代には第二次欧州戦争が起きていました。ヨーロッパとアジアで同時に戦争が発生したことにより、世界は第二次世界大戦へと突入しました。
戦時下、貞三郎のもとに赤紙の召集令状が届きました。
貞三郎は、若き妻と娘、そして妻のお腹の中にいた赤ちゃんのために、緑町の店舗と屋敷を売却。
万が一、戦死した時を考えて、家族の為にまとまったお金を作り、薬師町の小さな敷地に妻と子を移転させ、出兵しました。
台湾出兵
貞三郎の最初に赴任先は青森でした。青森の海辺で旧日本軍に関わる仕事を担った後、台湾へ出兵しました。
台湾から船に乗って南方に出港しようとした時、日本軍の船が米軍の魚雷によって爆撃され、兵隊たちは海に投げ出されました。
日本軍の指揮官は「今から米軍の攻撃が始まる。船に積んでおいた丸太の綱を切り、海に投げ放て。船が爆撃され沈没する前に、できるだけ船から遠くに離れよ。海に浮かんだ丸太に捕まって、日本軍の救助を待て」と指示。
米軍の攻撃が開始され、日本軍の船は沈没。貞三郎ほか日本兵たちは海に投げ出されました。
その後、台湾からの救援によって貞三郎たちは救助され、台湾に戻ることができました。
しかし、貞三郎は体調を崩してしまい、兵隊としての務めができなくなってしまいました。
他の隊員たちが南方へ再び出港するのを見送りながら、貞三郎は台湾に留まることになりました。
自動車の運転手
台湾では、将校たちが運転手を探していました。当時、自動車も貴重でしたが、自動車の運転ができる者も非常に重要視されまあした。多くの若者が出兵する中で、運転手も減少していました。
貞三郎は、戦争が始まる前、箱根で開催された自動車運転技術の全国大会で第二位の受賞歴がありました。
そこで、将校たちは貞三郎を呼び出し、実際に運転させてみたところ、非常に運転が上手だった為、その後も南方への出兵をさせず、大尉や少尉付き運転手として任務に就くことになりました。
一兵卒だった貞三郎は、将校たちと仕事をするにあたり、階級が低すぎては釣り合いが取れないとされ、軍曹まで階級を引き上げられました。
貞三郎は10才で働きに出た職人でしたので、小学校もろくに出ておらず、高等学校も大学も行っていませんでした。
読み書きソロバンは仕事で覚えましたが、肝心の学歴がない為、高い階級に就くことは許されず、軍曹以上になることはできませんでした。
特攻兵と教官の最期
ある日、貞三郎は台湾から飛び立つ特攻隊を見送る仕事を手伝うことになりました。
まだ年若い特攻兵たちは、訓練を経た後、台湾から南の空の彼方へ向かいました。
出兵前、特攻兵たちに杯が振る舞われ、みんなで焼酎を飲みました。中にはぐでんぐでんに酔っ払った者もいたそうです。でも、出兵直前になると皆シャキッと背筋を伸ばし、一同に敬礼しました。酔い潰れて飛行機に乗る者はいませんでした。
全員が飛び立った後、空を見つめていた特攻兵の教官が貞三郎に言いました、
「あの子らを育てたのは俺だ。あの子らだけを死なせるわけにはいかない。俺も一緒に飛んでいく。今まで世話になった。」
そして、教官も空へ飛び立ちました。その後、誰も戻ってきませんでした。
赤い夜空
山形市内には直接的な爆撃はありませんでしたが、軍事工場や飛行場にはB29による砲撃が行われました。
一方、奥羽山脈の向こう、宮城県仙台市ではB29による激しい空襲が行われました。
山形市内から山々を仰ぎ見ると真っ赤な空が見えました。
まだ幼かった子供たちの記憶にも、鮮明に、恐怖の記憶を焼きつけるほど、破壊的で大規模な空襲でした。
敗戦
日本では原子爆弾が二つ投下され、ポツダム宣言が受諾。
天皇陛下の玉音放送が流れ、第二次世界大戦が終結しました。
しかし、昭和20年8月15日以降も、台湾の日本軍は未だ敗戦を受け入れる様子はありませんでした。
「本当に日本は負けたのか」
軍人たちは騒然としました。
日本が今どうなっているのかを確認するために、台湾から軍機が日本本土の東京に向かって飛び立ちました。
その際、本土の日本政府や米軍にも連絡が入り、「台湾から飛ぶ日本の軍機を撃墜してはならない」との指令が下りました。
台湾から飛んできた日本の軍機は、東京の焼け野原を目撃。台湾に戻り、日本が敗戦したことを台湾の司令部に報告しました。
逃げる上官
日本敗戦を正式に受け入れた旧日本軍の上官たちは、軍服を脱ぎ捨て、我先にと台湾から本土へ船に戻ろうとしました。
上官たちは一兵卒の服を着て、身分をかなぐり捨てて、船に乗り込もうとしました。
台湾に残っていた日本兵たちは、船に乗って逃げ去ろうとする上官を見つけるや否や、怒り沸騰。
「おまえらが俺たちに戦地に行けと言ったんじゃないのか!」
「軍人のくせに先に帰るなんて卑怯な!」
「逃げるな!」
と詰め寄り、逃げようとする指揮官を次々に海に投げ飛ばす一面もありました。
台湾との交渉
脱ぎ捨てられた軍服を見つけた貞三郎たちは、その軍服を着ることにしました。なぜなら、台湾側との交渉には、ある程度の役職の者でなければ話し合いができなかったからです。
台湾側も、貞三郎ほか残された兵士たちの身分が将校ではないことはわかっていました。それでも、旧日本軍と台湾はお互いに話し合いをして、終戦交渉を行いました。
貞三郎たちは、最後の日本兵を台湾から日本本土へ船で送り届けるまで、最後まで台湾に残り続けました。
台湾に残った日本兵たちは、独自に船を作り、本土に帰ろうとする者もいました。
船乗りや機械屋など、それぞれの職業の技術を活かしながら、手作りの船を作りました。どこからか持ってきた扇風機を改造し、船のモーターにしようとする者もいたとか。
しかし、出航前に発覚。勝手に本土に行ってはならないと諫められ、手作りの船は破壊されました。
台湾で過ごした戦後2年あまりの間、貞三郎も持ち前の器用さを活かして、手作りの台車を拵(こしら)えました。
その台車を引きながら、物売りのような仕事をして銭を稼ぐこともありました。
戦争終結から2年半後、最後まで台湾に残っていた日本兵たちは台湾人との間で行われた様々な引き継ぎを終えて、ようやく本土の土を踏むことができました。
戦後の孤児たち
貞三郎は日本の和歌山県の港に到着しました。
台湾からの帰国組に対し、旧日本軍の指揮官だと思われる人物が次のような指示を出しました、
「君たちに食料と水を分け与える。途中、浮浪者や乞食や孤児たちと出会っても、決して食料や水を分け与えてはならない。一度もらうと、彼らは次々にもらいに来るので、君たちの食料も水も枯渇してしまうだろう。家族のもとに帰るまで、決して他の者に食料や水を分け与えてはならない。」
貞三郎は東京までの道中、何度も戦争孤児たちと出会いました。自分の娘くらいの幼い子供がお腹を空かしているのを見つけると、放ってはおけず、なけなしの食料を少しだけ分け与えることもありました。
一人の子供に食料を与えると、「おじちゃん、僕にもちょうだい」「あたいもほしい」と次々に子供たちが寄ってきました。でも、貞三郎は自分自身が自宅に戻るためにも食料が必要であった為、孤児たちにすべてを分け与えることはでしませんでした。
東京に列車が到着すると、東京の人たちは旧日本兵に対し、
「兵隊さん、お務めご苦労さまでした」
と深々と頭を下げてくださいました。貞三郎たち兵士たちは、その言葉にとても慰められました。
知らないおじさんが来た!
列車を乗り継ぎ、やっと山形駅まで戻ることができた貞三郎は、駅から自宅まで歩いて帰りました。
家の入り口では、小さな坊やが遊んでいました。
兵隊姿の貞三郎の姿を見た坊やは、びっくりして家の中に逃げ隠れました。
「お母ちゃん!知らないおじさんがきたよ!」
坊やの声を聞いた妻が玄関まで出てみると、そこには四年ぶりの夫の姿がありました。
ロケット工場の終焉
敗戦直前、日本国内の各地では、軍事に関する文書は火にくべられ、焼却されました。
山形市内にも旧日本軍の工場がありました。ニッピと呼ばれる工場では、国産のロケットを開発していました。
大東亜戦争終結前の昭和20年8月14日、ニッピに火が点けられ、すべて焼き払われました。
こうすることで、大日本帝国の軍事機密がGHQの手に渡らないようにしたのです。
地元の人たちはニッピが燃えるのを眺めていました。
燃えさかる工場の最後を見ようと、赤子をおんぶしながら自転車に乗って駆けつける者もいました。
仙台空襲の燃えさかる夜空、そして、ニッピの炎上。
赤い戦禍を見た子供たちの心には、戦争の恐怖が刻み込まれていきました。
GHQ占領下、敗戦国の現実
連合国軍総司令部であるGHQは、敗戦国日本の各地に入り込み、行政から教育、民間の仕事まで、多方面に渡って管理していきました。
GHQが行った政策の中でも、とくに重要なのが「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」と呼ばれる「戦争罪悪感宣伝戦略」です。
これは、NHKのラジオや新聞、教科書などを通して、次々に旧日本軍の戦争責任をまつりあげ、日本人の脳と心に罪悪感を埋め込むものでした。
また、子供たちの教育にもウォー・ギルトは刷り込まれました。
GHQが日本に対して行ったこれらのプログラムは、米国で著明な心理学者のヒルガード博士と複数の心理学者や教育学者が関わっていたもので、大衆心理操作の一環として行われました。
(余談ですが、現在ではテレビなどの番組のことを「プログラム」と言います。ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムなどの占領政策も「プログラム」と言います。つまり、プログラムとは、相手を特定の心理状態におくための洗脳技術を意味しています。戦後日本人がウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの実態を知るようになったのは、米国に渡った研究者の江藤淳氏が米国内の図書館に眠っていた資料を調べて執筆した著書「閉ざされた言語空間」が発表された昭和50年代から60年代になってからでした。それ以前の日本人は戦争罪悪感宣伝戦略がテレビやラジオや学教教育などに埋め込まれていることを知る由もありませんでした。)
ある日、山形市内に東京からNHKの職員がやって来て、人々の前で次のような話をしたことがあったそうです、
「テレビは動く紙芝居。テレビは1日1時間以上見ちゃいけない。あれを見続けると頭がバカになる。」
戦後のNHKの人は、テレビを見ると洗脳されるということを、どうやら事前に知っていたようでした。
ちなみに、「NHK」というテレビ局の会社名を考えたのは、GHQです。
NHKが戦後ラジオで民衆向けに放送した「真実はかうだ!」という番組は、GHQの指導によって作られたプログラムでした。
民放各社も、それまでの日本人の貞操観念や礼節の伝統を破壊するような番組(プログラム)をたくさん放送しました。
プログラム作成には、大東亜戦争中にフィリピンで米軍の捕虜となり、戦後に入ると「青い山脈」などのような物語を書くよう、指示された者もいたようです。
戦後の日本国内では、次第に旧日本軍の兵士たちやご先祖さんに対する敬意や配慮は損なわれ、日本的であることを恥じる文化が形成されました。
そして、戦後日本は、次第に日本はアメリカの色に染まっていくことになりました。
そうした中、戦後日本の経営者や労働者は、GHQとの関わり合いの中で仕事を貰い、細々と食いつなぐ日々となりました。
GHQの地方に対する政策は、日本の田畑がどのようにして土地や水の流れを読み取りながら自然と調和しながら作られてきたかなど、全くお構いなしでした。
川の流れも地形も無視して、道路を切り開き、地域の地縁を破壊していきました。
地元の人々が長年にわたって先祖代々築き上げた、たんぼ道や農道、神社へとつながる参道を無視して潰し、真っ直ぐな滑走路を作りました。
そして、GHQの軍機が離着陸できるよう、環境整備や開発をしていきました。
日本人が神社やお寺さんに集まって話し合うことが禁止され、代わりに公民館が建てられていきました。
戦後間もない頃、神社で結婚式を挙げる人が減ったのは、GHQの政策によるものでした。代わりに、公民館で結婚式を挙げる人が増えました。
武家に伝わる武術を伝授することも禁じられ、あらゆる方面から精神性の破壊が行われました。
GHQが日本を統治していた間、武家の家に代々伝わっていた武具や馬具や刀などを床下の穴に埋めて隠す者もいたそうです。
GHQの滑走路とガラス屋
戦後、貞三郎はガラスの仕事をするにあたり、ある程度の広い倉庫や駐車場が必要でした。
そこで、GHQが切り開いた滑走路の近くの田んぼを買い取り、ガラス屋の倉庫を建てました。
GHQの軍機の滑走路の一つは、現在では山形市大野目を走る「山寺街道」と名づけられています。
昔ながらの本来の山寺街道は、今もごく一部に細道として残っています。もともとは二口峠から続いているくねくね曲がった田んぼ道を通り、馬見ヶ崎川の二口橋までつながる農道でした。ですから、現在の一直線上の山寺街道とは様相が異なるものです。
今の大野目付近の山寺街道は、戦後GHQが占領下に整備した道路であり、戦前の日本の風景を変えた道路でもありました。
山寺街道と並行して走る戦後開発された国道13号線もまた、神社と地元の住民との心の絆に分断をもたらした戦後の遺構だと言えます。そこにあったであろう戦前戦中まで広がっていた景色がどのようなものだったのか、もはや知る由もありません。
ギブ・ミー・チョコレート!
戦後まもない頃、GHQが作った滑走路に米軍機が降り立つと、子供たちは田んぼ道を駆け抜けて「ギブ・ミー・チョコレート!」と叫んで集まり、米軍兵士からお菓子を貰いました。
町中にはパンパンと呼ばれる米軍相手の売春婦がいました。
白人との間にハーフの子供が生まれると、地元の人々はその子供を可愛がりはしましたが、パンパンの子だからという理由だけでハーフの子供をつねったり叩いていじめる場面もあったようです。
戦後日本では、敗戦のドサクサに紛れて、あちらこちらで闇市が立ち並んでいました。
敗戦国の日本では、GHQから仕事を貰わなければ職業にありつけないという現実がありました。
占領下の日本の復興はGHQの手で進められ、仕事もGHQが采配を執っていました。
GHQの占領政策を通して日本各地で物資が流通。そのおこぼれにより、非公式に闇市が開かれていきました。
戦後の闇市はGHQが裏でコントロールしていました。
山形大学の裏の防空壕跡
山形大学の裏手に人工的に作った丘のようなものがありました。それは戦時中に防空壕として使用されていたもので、中に入ると200人ほどの人数を収容できる広さがありました。
戦後、その丘は子供たちの遊び場になりました。冬になると防空豪跡に雪が積もり、子供たちがそり滑りをしたり、お手製のスキーで遊んだりしました。
戦争孤児と干し柿
戦争で親を亡くして子供たちは、ひもじい思いをしていました。
秋になると、子供たちは農家の敷地にやってきて、たわわに実った柿をもぎ取っていくことがありました。
地元の百姓たちは見て見ぬ振りをしました。そのまま、孤児たちに柿を取らせていました。
子らは盗んだ柿で干し柿を作り、冬の間の食料にしました。それを地元の人々も知っていたので、柿が盗まれても誰も怒る者はいませんでした。
むしろ、今年も子供たちが元氣でいることを微笑ましく思っていました。
帽子屋のシローと下駄喧嘩
貞三郎には息子がいました。長男の友通は、貞三郎が出兵前に残していった戦中生まれの子供で、台湾出兵中に生まれました。
友通少年は、貞三郎の言いつけは何でも聞く大人しそうな子でした。しかし、貞三郎のいないところでは、近所の子供と喧嘩をすることがありました。
ある日、帽子屋の息子のシローちゃんと喧嘩になり、友通が勝ちました。
子供の喧嘩には親は顔を挟まないのが通例です。しかし、帽子屋に逃げ帰ったシローちゃんを見た帽子屋のおやじさんは、この時ばかりはと腹を立て、下駄を持って友通を殴りに来たそうです。友通少年は急いで逃げました。
昭和の時代は子供同士の喧嘩も遊びの一つでした。
貞三郎は、子供の喧嘩には口出しはしませんでした。
薬師町のガラス屋の裏手には、瀬戸物屋の女将さんがいました。近所では「セト婆」(せとばあ、瀬戸物屋のばあさん)と呼ばれていました。友通にとって、風変わりなセト婆も友だちの一人でした。
友通は地元の小学校には通わず、大学付属の小学校と中学校に進学しました。勉強のできる賢い子供でしたが、少し変わり種というか、当時としては個性豊かな少年だったようです。
敗戦後の日本の各地ではウサギ小屋のような小さな家が立ち並んでしました。
子供たちがその合間の露地で遊び、母親や祖母たちは傍らで井戸端会議をする。そんな光景がごく当たり前のように広がっていました。
警察学校の教官へ
貞三郎は、地元の消防団で陣頭指揮を執るなどの活躍をしました。
年下の者たちへの面倒見がよかった為、多くの弟子が集まりました。
また、山形市内でも自動車の運転技術の高さが評価され、警察学校に出入りし、警察官たちに運転技術を教習することもありました。
ある元・警察官は、後年、生前の貞三郎を思い出しながら、
「いやあ、怖いおやじさんでしたよ。警察学校で質問に答えられないと、ロープが飛んできて、鞭打ちされましたからね。」
と笑って話してくださったこともありました。
貞三郎と若社長
かつての修行先だった竹原屋本店では、年若い青年が家業を継ぐことになりました。貞三郎にとって竹原屋本店の若社長は、小さい頃から面倒見て育てた弟のような存在であり、同時に弟子でもありました。
竹原屋では長い間、子宝に恵まれませんでした。なので、貞三郎が次期社長になる話もありました。しかし、男の子が生まれると、貞三郎の次期社長の話はなくなりました。
そして、貞三郎は男の子にとっての兄弟子として務め、ガラスの加工技術を教えました。
戦後、竹原屋工務店の若社長から電話が入ると、貞三郎は自分のガラスの仕事を擲ってでも助けに向かうことがありました。
貞三郎にとっては、自分が10才から働いていた修業先の竹原屋工務店にご恩を返したいとの思いもあり、何度も若社長を支えていきました。
(続く)